E=mc2とE=Hv

「色即是空」という言葉を始めて目にしたのは、般若心経というお経の中でした。
空は、目に見えない波の世界。量子力学では「E=Hν」(エネルギーは波長である)
色は、目に見える世界。量子力学では「E=mc2」(エネルギーは物質と等価である)
ということらしいのですが、

最初にこの経文を読んだのは、ヨガのポーズの本におまけのようについていたもので、
その後十代後半にバグワンラジニーシの一連の書籍に般若心経についての講和のものがあり
それを読みつつ、色々と考えたものでした。

子供の頃から読んでいた各種の児童文学や小説の中には、時間や空間を飛び越えていくものも沢山あり、
それがその世界では当たり前のことだったせいか、もともと時間というのは便宜上あるものだと感じていたのかも
しれないと思います。大体子供の頃に実感していた時間というのは、ある時は早く、ある時は遅く過ぎていくものでしたから。タイムマシーンなど星新一的な世界ではなくても、浦島太郎の話ですでにその領域はクリアしていた感があります。(笑)

そもそも、物質としての人間のものごとの認識は、五感から情報を脳に伝え、記憶されています。過去を思い出す=脳内で記憶が再現されているに過ぎない…というのが科学の分野での話です。未来も同じことで、未来を想像する=脳内に創造されたイメージが未来予想図という記憶になっていることになります。

過去も未来も脳内の記憶を脳内で再現しているのは、今ここ(現在)の自分。…と、これは様々な人々が異口同音に語ってきたことで、「時間」は物事がどう変化したかを分かりやすくするために作られた物差しに過ぎず、本当は、「現在(というのは正確ではない気がします…)」というか時空間の観念をとっぱらった「ここ」が全部です。(それでいくと、全てがないってことでもあるな…と思えなくもない。

今日、ネットで見かけた言葉にネガポジというのがありました。私などはフィルム時代のネガとポジを想起するのですが、それではなくて、ネガティブ(否定的)ポジティブ(肯定的)全体、もしくはそのバランスなどを指す言葉のようです。過去のネガティブな体験もポジティブな体験も、普段は頭の片隅にも浮かんでこないので、過去の失敗のみじめさだとか後悔の念が、記憶から湧き上がる…といった体験はあまりなく…あるかもしれないけれど、すぐに忘れてしまいます。あえて言うなら、歌を歌ったり演奏したり、舞台で役者をするなどをやりたいといったら、クラスメートのほぼ全員がえーっ!!こいつがそんなことできるわけないじゃんって否定的な反応をしたことくらいです。

それにしても、現在に至るまでに、誰かが何かを言った、やったからではなくて、自分が自分の出来に対してgoサインを出さないということに変化していて、やっとこの程度ならやってみてもいいんじゃないの?くらいには、許容できるようになりました。

何かで読んだ未来は自分で作り替えられる…といった話の中に、以下のようなものがありました。

「自分はこういう人間なんだ」とセルフイメージ(自己認識)を決めてしまうのも同じです。セルフイメージも、過去の記憶が脳内にインプットされて「自分はこういう人間だ」と思い込んでいるに過ぎません。
ということは、「自分とは何者なのか」も好きなように設定できるのです。
このように、ゲームのアバター設定のごとく、脳内のセルフイメージを好きなように設定し直すと、発する言葉も行動も全部変わってきます。つまり、私たちはどんな人間にもなることができ、どんな人生も創り出すことができるということです。

これって、大なり小なりやってきていることだな~と思いました。
演劇というのは、別の誰かを演じるところから始まります。どの役をやっても自分が出てくる役者さんというのもいることは居ますが、それも素の自分ではないでしょう。
大抵は、セリフやト書きからイメージを膨らませ、セリフを誰かとかわすことで生まれる生きた反応を取り込んで、自分の中に仮想の人物像を創りあげていくのです。

量子力学の素粒子の「二重性」の性質というところから、タイトルは出てきているのですが、これは、この世界を形作る最小単位である素粒子は誰も観察していない時は波のように漂っているが、誰かが観察すると粒になって具現化していくという2つの性質を持ち合わせているというものです。

これでタイトルのE=mc2とE=Hvを説くと、mc2=Hvでもあり、物質というものは、それを見る人がいなければ単なる波動であると、解釈できなくもない。ってことは、私という存在を誰か別の視点から確認していない限り、私という個体は現象としては現れていないことになる。けれど、現象ではなく波としてはそこにやはり在るわけです。

これ…幽霊の話に置き換えると、なかなかしっくりくる話です。
見えない人にはまるっきり無いものなのに、見える人にはリアルに在るというのが幽霊等の存在です。
ひっくり返して言うと、見えないからこの世には現れなくても、波動としてはそこいらじゅうに存在している…ということかもしれません。(笑)

今年始まったこと

covid19・・・新型コロナウィルス。
その世界的な感染の広がりによって、世界が止まったかのようになった。
春、本来なら、新しい芽吹き、新しい年に活気あふれるはずの時期が、
未知のウィルスによる健康被害と、死に至る可能性等の恐怖で覆われた。
毎日のように情報が更新され、感染者数、死亡者数がどんどん増えていく事態に
先の見えないトンネルに入ってしまったかのようにみえた。

今も、収束はしていないし、地域によっては再び感染拡大の様相をみせているところもある中で、つい一年前のような、世界中を自由に旅行できる…といった環境は、回復できていない。

それどころか、同じ街中であっても、お互いに距離を保たなければならない、外出時はマスク必須。大声で騒いだり、歌ったりなどということはできない。
酒宴で騒ぐなどもってのほか、親睦会なども軒並み中止となっている。
音楽や演劇などの舞台芸術は、半年の間はほぼ活動中になり、夏をすぎてやっと
上演の基準を守っての公演が再開されはじめた…けれど。

これは、なんなのだろう…。

不安がある中でも、日々は過ぎていき、否応なく適応して生きることを余儀なくされた。
幸いなことに、マスクは数年前からPM2.5によるアレルギー反応を予防する為に使っていて、洗って使えるマスクやフィルターが十分にあったし、消毒用のアルコールやウェットティッシュ、その他感染防止に役立つものは、アロマセラピーをしていた関係で手元にあった。

もともとインフルエンザ等の感染防止には気を使っていたこともあり、通常運用とさほど変わらない準備で済んではいたものの、外出することも、日常の買い物以外は控えるようにという風潮に、かなり面食らった。

なにしろ、仕事で通勤することすら、自粛するようにと国から非常事態宣言がでるなんてことは、今まで経験したことがない。自粛して仕事しなくていいという訳にはいかないだろうと思っていたが、自分の生活範囲での出来事としては、自宅勤務というよりは、自宅待機の人が多かった。なにしろ上からは仕事をしろという指令は出ていなかった。仕事をしている身としては、今年の予定からすると、単に手をこまねいているわけにはいかない。この状況下で何ができるか、どういう方法が残されているかくらいは探っておかなければ、この後、いざっていう時に何の策もできないのでは、担当としての責任が果たせない。

自宅勤務するので…と上に伝えて、独りぼっちの暮らしが始まった。
程なく、上から、仕事をするのならば、毎日連絡をしろという指令があった。
言われなくたって、自分がどれだけのことができるかは、上に知っておいてもらうくらいはしないと、先行き何かあった時に困るから、報告はする。上が理解しようとしまいと、自分が何をやったかは記録に残しておくつもりだった。

動き出した世界と

そこに生きる人々は、どう折り合いをつけていくのだろう?

このところ、そんなことを考えている。

人類があちこちで起こしている、公害や戦争などの破壊と
それを振り払うかのような自然災害の数々
公になっていない破壊行為は、一目には触れなくても
地球に隠し立てすることはできない。

そして、知ってか知らずか、地球に生きる命はすべからく地球である・・・ということ。

自傷行為は、未熟な魂の負のエネルギーの発散に思える。
個の自立、自律や成長は、全体性の中にしかない。
権利も義務も、全体があってこそである。

正しく財を極めたものは、いずれ全体へと戻っていく。

正しく名声を極めたものも、いずれ全体へと戻っていく。

何を成すにしろ、成し遂げるところを目指し続けなければわからないことがある。

木々と人の繋がり

4-5年ほど前だったと思う。地球交響曲第八番というオムニバスドキュメンタリー映画の制作時に、その周辺のイベント等のお手伝いをしたことがある。

その映画を一観客として観てきた。

地球交響曲のシリーズは、私のアンテナに引っかかった物事が時々取り上げられていて、それだけでも嬉しくなる映画だけれど、八番を手伝う気になったのは、テーマが木、樹木と人のことだったから。

特に八番は、そもそも東日本大震災を期に構想が錬られたらしく、めずらしく日本人ばかりを取り上げた作品になっている。バイオリン創り・中澤宗幸、バイオリニスト・中澤きみ子、能面師・見市泰男、能楽師、奈良の天河神社の宮司、梅若玄祥(能楽師・人間国宝)、畠山重篤(牡蛎養殖業 NPO森は海の恋人理事長)、畠山信(NPO森は海の恋人 副理事長) 、その他それぞれのエピソードに関わる人々が出演している。明治神宮の宮司さん、大鼓の大倉正之助さんなど。

まるっきり直接の縁などはないのだけれど、明治神宮は幼いころからずっとお正月に初もうでをしてきたお社だし、能楽は能管をやったり、新作能の制作のお手伝いをしたことがある(その時の中心人物に大倉正之助さんがいたけれど)。天河神社はこんなにメジャーになる前に訪れたことがあり、その後もまるで別な用件で出向いた。山の木々は精油や山登りで親しんでいるし、海も磯で潜ったりするのは子供の頃からの話である。バイオリン創りは、そういう内容の絵本を好きで朗読していて、その姿にそっくりな木々との対話をする製作者であったり、子供にバイオリンを教えるときのアプロ―チがイメージづくりから入るという、親近感沸くバイオリニストだったりと、手伝うには十分すぎるほどの接点ある内容だった。 子供の頃からのあれこれが全部詰まっているようなものだった。

とりわけ、自然との交流は、子供の頃からの習性であって、改めて映画という形で見ると、ああなるほどな…と思うのだが、つまりは日常に起きていることがらで、ともすれば見逃してしまうような繋がりがあるのだ。自然は、ごく当然のごとく、様々なことを教えてくれる。怖いこと、悲しいこと、楽しいこと。驚愕するような素晴らしい景色や絶妙なタイミングで起きる気象の姿。草木の季節の巡り、風や土、水の匂い、ぬくもりなど。人以外の生物の在り様。町中から山頂まで、それぞれに祭られている神々の社や祠。人の幸せの在り方。命の意味。

ちょうど、その映画を作っている時は、自分もある転機だった。逃げ出しても不思議ではないような事柄や、不条理な思い、ともすればすべて投げ出したくなったりしていけれど、必ず「生きよ」という答えが浮かんでいた。少なくとも何事か、必要とする物事を進める力として配置されているならば、それを完結するまでは生きるという暗黙の認識が二十歳を過ぎたころにはあった。

木々とは地球の触手のようだと思う。地球の肌の上に生きる命と交流し、必要な養分を分け与え、命が終わる時には、土に還るものを受け入れる。

今年、ベランダで育てていた鉢の木々の大半が枯れた。数日前まで大きく葉を広げていたのに、突然、総ての枝葉がしなびていった。慌てて、家の中に取り込み、土を変えたりしてみたけれど、かろうじて芽を出したものも、育たないやせ細った小さな葉だけだった。

人は酷いことをするなと思う。それも悪びれずに。それが自分たちにも及ぶとは思ってもいないのだろう。庭の雑草を処分するために撒く除草剤は、雑草だけに効くのではない。草木だけに影響するのではなく、草木と共に生きる生物にも影響を与え、つまりは人間にも影響を与えている。除草剤だけではなく、過剰な成長促進剤や、殺虫剤や除菌剤の類も。めぐり巡って人の世にも多大な影響をもたらしている。

学校の勉強が、個々の分野しかみない、しかも質問に対して一つの答えだけを覚えるようなものになってから、全体を把握する力のない人々が増えた…ように思う。その顕著な例が医者だ。私が子供の頃には、内科でありながら、目の事や外科的なことも日常範囲でなら診ることができ、適切な処置をしてくれるお医者さんが町内にいた。今は自分の専門分野の病気や疾患についてすら、まともに診察できず、症状をきいて、効き目があると言われている薬の中から、順番に処方していき、一週間ごとに効き方の良し悪しで薬を変えるか継続するか…といったことに終始している。

そんなことなら…と思う。人間が自然の中で学んできた昔からの療法の方が的を得ている。実際、医療関係でもらった薬より、自分で選んだハープや漢方薬、精油や徒手療法の方が、納得のいく成果を出している。

なんだかなぁと思う。人はどこを見て生きているのだろう。

自然は厳しく恐ろしい面もあるが、それとて人の都合で見た場合である。不必要なことなど自然には何一つない。木々はその命の務めを精一杯に果たし、それが短かろうと、長かろうと、生きるという方向を全うしていく。 生きている時は木陰を作り、土を肥やし、動物たちに糧を与え、水を浄化し、空気を作り…。その生き方が、へこたれようとしている人に「生きよ」というメッセージとなった届いている…とも。

見切り発車

いろいろ考えて、

構成を決めてから…と思っていました。

でも、書きたいことの方が、増え始めて

テーマやなんやらを考えていたら

いつまでも書けなくなってしまうのです。

だから、とりあえず、発車。

書きながら、考えていけたらいいかな・・・と思っています。

 

声で伝える

IMGP0076このサイトの構想は、もう20年位前にさかのぼります。
漠然と声で何かしたいと思っていました。
文字で文章を綴ることは、ずっとやっていたことですが、
それを声で表現するところまで繋げて、その先へと考えていました。

もうひとつ。
これは物心ついた時からすでにあったことですが、
自然と言われるもの、自分を取り巻く事象の在り方から、与えられるものを
私なりに表現したいな…それらがどんな風に活用されて、何をもたらすのか。
おそらく、昔から、人と環境ってそういう風に循環している力の一端だったのだろうと思います。

人と自然とのつながりが切れていて…とか、時々聞きますが
つながりが切れているというよりは、働きかけに気づくことが少なくなった、
気がついてもそれが何なのかわからないで過ごしている…そんなようなことではないかと思います。

そんなことも、昔のお話などには、時々語られていて、それらを読みながら、ああこの間こんなことがあったな…と、
今の日常と結び付けてみたりしています。