日本の言葉とか文化とか習性とか…

コロナの後、ちょうど一年ほど前。怒涛のような研修事業をやり上げたところで、急性のめまいで一週間仕事を休んだことがありました。
年間の研修が終わったところだったから、気が抜けていて、疲れが出た…のかもしれません。

いつもがいつもではなくなる可能性は、子供の頃よりも感じるし、考えるようになりました。
その前から、なんとなく始めた日本語を教えるための勉強は二年目。勉強しはじめてわかったのは、
自分が目指したいこととは、だいぶ違う業界だということでした。
オリンピックがあったから(まるっきり二度目の東京オリンピックの記憶はないけれど)、日本を紹介したくなる人、日本に興味が沸いた人など、様々に増えていたりしたのですね。

日本語の話し方を教えた時に、なんでそう言わなきゃいけないのかと聞かれることがあります。

日本人ではない人が、日本語を学んで使おうとするとき、ネックになるのは、日本語の文法など言語的な体系ではなく、それを使う人々の間での気持や、お互いの関わり方といった、文化とも習慣とも言い切れない、色があります。

これは、言語は伝えるだけのものではなく、生活の中の手段であるということが、特に日本語の場合強いということではないでしょうか。

他の言語でも、例えばUSAで一般的に使われている英語というものと、UKのそれとはだいぶ違う色がついています。手段としての英語は、多くの国々で使われていますので、それぞれの国でそれぞれの使い方が、実はあります。
それでも、英語…というベースは同じですから、通り一遍の意志疎通などはできます。

日本語は、ほぼ日本でしか当たり前には話されていない言語です。
それゆえ、それにまつわる使い方も日本に長らく暮らしている人々の常識や習性を色濃く反映していて、
単に意思疎通のツールである言語を超えて、密接に、分かたれることなく文化を取り込んでいます。

それを学ぶというのは、かなり日本に首を突っ込まないと真には身につかないでしょう。
しかも、いまだに日本のそれらには、世界の常識の真逆の発想をベースにしているものもあり、
それを理解しろというのは、なかなかハードルの高いものだという気もします。

けれど、近年、日本が好きだという外国の人々が増えてきているのか、そのちょっとずれている考え方や
行動規範などに、興味を覚えたり、入れ込んだりする方々もいるようです。

もっと、日本を日本語をきっかけに、楽しみ、愛でてもらえたら…そんなことを想いつつ、
今年は、新米先生の旗揚げをしています。

目指すのは日本語教師ではなくて、日本を楽しむナビゲートコーチです。

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