礼子さんがひさしぶりにトリートメントに来た。半分友達のようなお客様。出産があったので、前回は半年以上前だった。その時は、少々悩んでいたことがあって、メールでフォローしたのだった。その礼子さんに起きた、ひと騒動を紹介しようと思う。
「なんだよ!」という夫の怒鳴り声がバスルームで響いた。あわてて妊娠5か月の体を揺すって駆け付けると、夫は裸のまま仁王立ちになっている。いつもなら、吹き出しそうな光景で、「タオルくらい・・・」といいかけて、あやまった。「ごめんなさい」
夫はその私の一言で、私が状況を理解していないことを見抜いた。
「わかってないでしょ!この臭いだよ!もう!」
「え?ラベンダーとローズ、いい香りでしょ?」
「風呂だぞ!なんでトイレみたいな匂いなんだよ!」
「え~っ!」
あわてて私は、バスルームの中に入った。妊娠中ときどき気分が滅入るので、聞きかじったバスソルトを入れて、くつろいだのだけど…。ローズとラベンダーの優しい香りがバスルームに漂っている。思わず深呼吸をして振り返ると、夫が腰にタオルを巻いて、しかめっ面をしている。
「何かんがえてんだよ!ったくさ~。疲れて帰ってきて、風呂ぐらいゆっくりくつろぎたいじゃんよ~!」少し、夫の口調が軟らかくなっていた。
「ごめん…。イライラが出そうだったから、ネットで見たバスソルト入れたの」
「そりゃさ、大変だろうけどさ…なにも、こんな匂いのにしなくたっていいじゃん。普通に草津の湯とか…あるでしょう?」
「うん…でも、天然の植物の精油は体にいいし、疲労回復の効果があるっていうし、大ちゃんも喜んでたんだよぉ」
「大輔、こんなのによく入れたな~、大丈夫か?」
大輔というのは、2歳になる長男。夫は面倒くさがりなので、もう少し大きくなるまでは、私がお風呂は担当することにして、一緒に入っている。
「大丈夫ってどういうこと?大ちゃん、お花の香りって、喜んでたよ」
「だぁってさ~、おかしいだろ、風呂だぞ風呂!せめて柚子くらいにしてくれよ」
どこまで行っても、平行線になりそうな会話をどこで止めようか考えていると、夫はバスタブの栓を抜き、窓も開け、脱いだ衣類を身に付けて、さっさと居間に戻っていった。
あーあ。
しかたがないので、夫の好きなおかずを一品増やして、缶ビールを出した。
寝ている大輔のほっぺたをつついて、起きないのを確認し、お膳に戻ってきた夫は、何も言わずに、好物のおかずを平らげると、缶ビールを自分で冷蔵庫に閉まった。
「ビールはいいよ。そんなに怒ってないから」
「ごめん。お風呂がお花の香りだとダメなら、もうやらない…」
「うん…、わりぃ」
夫のその返事を聞いて、ふと不安になった私は聴いてみた。
「もしかして、洗濯物とか、ホントは気になってるんじゃ…」
「…」
一瞬の間があった。
「うん、いや。そーんなには」
「あー、そうだったんだ。私、ずっといい香りだからって思って、あの洗剤使ってた」
「いや、あの、それは…」
「言ってよ!もう!」
今度は、私が怒ってしまった。
「ケーすけは、いい顔して言わないで、我慢しきれなくなってから言うんだもん、いつも!」
優しい夫なのだ。優しいけれど、人の顔色をみてる。男なんだから少々のことはがまんしようと頑張ってくれてる。もともと育った環境が、昔風な下町の工場や商店が立ち並ぶようなところで、近所の人たちも皆家族みたいに開けっ放しなのに、新興住宅地の一軒家に住むサラリーマンの一人娘の私に合わせてくれている。でも、その合わせてくれていることが見えない壁になっていることに、夫は気づいているのだろうか。私の剣幕に恐れをなしたのか、夫は自分で空になったお皿を洗って片づけると、トイレに逃げ込んだ。
「明日は、ちゃんとお風呂であったまれるようにしとくからね」
夫の背中にそう言って、私は先に布団にもぐりこんだ。
次の日の朝、いつになく早く起きた夫は、まだ寝ぼけてうろうろしている私と大輔を残し、
「行ってきまーす」と朝食もそこそこに出ていった。大輔の朝ごはんを作るときに、キッチンのカウンターのメモが目に入った。
「むりすんな」
ほら、やっぱり 優しいんだから。
普通のお風呂…下町の銭湯の風景が思い起こされて、私の希望でピンク色にしてもらったバスタブや壁の花模様のタイルが、なんだか色あせたように感じる。。。たかが、バスソルト一つで、こんなに考えることになるとは思わなかった。
二人目の妊娠に気づいてから、お休みしていた行きつけのアロマサロンの店長にメールしてみることにした。私がマリッジブルーになった時も、大輔を産んだ後、育児ノイローゼになりかけた時も、相談にのってくれた頼りになる女性。
するとメールじゃ状況がわからないから、お茶でも飲みに来なさいと返事が来た。
話を一通り聞き終わって、私は笑ってしまった。
「礼子さん、それ惚気ですよ」
礼子さんは、キョトンとしている。
「やだ、すっかりブルーなメールだから心配したのに、損しちゃいました」
「ごめんなさーい。でもね、お風呂とかお洗濯とか、どうしよう」
「そうですねぇ。礼子さんのうっかりをなんとかしないと」
礼子さんの少しふっくらした肩から腕にかけて、ゆっくり手のひらを滑らせながら、このトリートメントオイルと同じ香りのレシピで、バスボムをお土産にあげようと思いついた。ヒノキとゆず、黒文字が入っている。
「礼子さん、今日の香りはいかがですか」
お客様によっては、必ずトリートメントに使う精油の香りは自分で選ぶこともある。礼子さんは反対に、私が礼子さんと話をしながら思いついた香りの精油を使うのを楽しんでくださるお客様だ。礼子さんは目をつぶったまま深呼吸をして
「すっきりしてて、好き。ちょっと甘い香りですね、何のお花」
「甘い感じは、たぶん黒文字です」
「クロモジ…日本語みたい」
「日本語です。日本で昔から使われてきた木の香りです」
「ふぅん。クロモジ」
「和菓子を食べるときに使われる楊枝ありますよね、木の枝を削いだような」
「あ、お茶会の時に添えられている…」
「そうです。あれはクロモジという木の枝で、殺菌効果もあるのだけど、香りが良いの。他の香りの邪魔をしなくて」
「なつかしい感じ。ほっこりして、気持ちいい」
「この香り、バスボムにしてお持ち帰り…どうですか」
「え?バスボムって、お風呂の?」
「ええ。日本人ってね、強い香りになれてない人が多いと思いません?男の人なんて特に。ほら、香水売り場って、男の人大抵避けて行くでしょう?」
「あ、私の夫もそうなの、でも庭のツツジとかお花の香は平気なの。だから、大丈夫と思ったんだけどな…」
ハァーっとため息が漏れたのに合わせて、手を滑らせてトリートメントを終えた。
「今日、帰って旦那様がこの香りを気にするか、少し気を付けてみてくださいね、大丈夫そうなら、お風呂にバスボムを入れてみてください」
「わぁ、どうかなぁ…」
「それから、洗濯用にリネンスプレーも」
「何に使うの?」
「洗濯洗剤は、匂いが余りしないものにして、干した後の匂いが気になるようなら、リネンスプレーを干した後にシュッシュッとしておけば、生乾きの除菌と消臭になります」
「大丈夫かなぁ」
礼子さんは旦那様の仁王立ちがよほど懲りたらしく、心配していた。
「人間ってね、昔から身の回りにある香りは、余り気にならないんですって。このスプレーやバスボムは、そういう日本の香りを使っているから安心してください。少なくとも、怒鳴られたりはしませんから」
礼子さんは、ハーブティを飲みながら、私がバスボムとリネンスプレーを作るところを眺めていた。
「こういうの、作れたらいいなぁと思ってたけど、夫が匂いがあるの嫌いだから、あきらめようと思って」
「えっ!」
思わず、作りかけのバスボムを握りつぶしそうになった。
「礼子さん、逆ですよ」
握りしめたバスボムを、礼子さんの手のひらに載せた。
「礼子さんが旦那様のこと大切に思うのなら、自分で作れるようになったほうがいいでしょう?旦那様がどんな香りがいいかわかったら、礼子さんが作ってあげられるじゃないですか」
「えー、また怒られちゃうかも…」
「私が味方です。応援します」
「うん…」
「庭のお花の香りは好きなんだし、ヒノキ風呂とかゆず風呂とか、菖蒲とか…香りが嫌いなのではなくて、くつろげるなじみのある香りがお好みなのよ、きっと」
「そうなのぉ」
「ですから、それを確認してくださいね」
出来上がったスプレーとバスボムを小さな手提げに入れて差し出すと、礼子さんはそっと中を覗き込んだ。
「いい香りだもんね。大丈夫、大丈夫…」
まるで、おまじないをするようにつぶやき、礼子さんは帰っていった。
バスボムとリネンスプレー
バスボム 3個分
重曹 30グラム
クエン酸10グラム
(ミネラル塩 10グラム)
精製水か、芳香蒸留水(ヒバ水を使いました)少し
ビニール袋 一枚
食用ラップフィルム 三個分
精油 5滴/個
木曽ヒノキ
高知ユズ
埼玉クロモジ (高知ショウガを使うときは、少なめに)
それぞれ5滴ずつ
ビニール袋に、重曹とクエン酸を入れ、よく混ぜる。ヒバ水をスプレーで
1~2回かけ、再び混ぜる。よくまざってしっとりしたら、精油を少しずつ入れて混ぜる。
よく混ざり合ったら、食用ラップフィルムを三枚並べて、ビニール袋から均等に分ける。
全部分け終わったら、それぞれをくるんで丸く握る。形がついたら、紐か、輪ゴムでラップが開かないように縛り、1日くらい寝かして、しっかり固める。
リネンスプレー 50cc
精製水か、芳香蒸留水 45cc
無水アルコールか、ウォッカ 5cc (少なめ)
あればビーカーか、メジャーカップ
ガラスの撹拌棒
スプレー容器 (プラスチックではないもの)
精油 10滴
青森ヒバ 5滴
埼玉クロモジ 3滴
高知ユズ 2滴
ビーカーなどで芳香蒸留水とアルコールを量り、容器に入れる。精油を入れてキャップを閉めて、軽く振り混ぜる。